はい、買った時は一巻の、ゾシマ長老とフョードルの顔合わせの場面で挫折。「このおじさん(フョードル)は、こんないい人な教会の長老様になぜこんな口をきくんだい!!!」と、いやになって辞めてしまった、ううう。
しかし…そのまま2年近く放置していたこの本が本棚に5冊仲良く並んでいるのを目にし、「いや、もいちどトライしてみるべ」と最後まで読破を目標に再び本を開き、今回は3週間ほどで読み終えました。
あーーー、この達成感(爆)!!! 母ちゃんやったよ!みたいな。
考えてみたら露文学の小説をまともに読んだのはこれが初めてだったり(ああでもイワンのばかとツルゲーネフくらいは読んだ事あったっけ)。確かに露文のイメージ「名前が長い、変化する、覚えきれない」がほとんどなくて、また「どよーんと重暗い」というイメージもなく、すらすら気持ちよく読み終えられたのは、有名になったこの亀山先生の新訳さまさまです。
露文学に限らず、いわゆる古典文学に接した事がほとんどないので、読んでいると構成に驚かされました。私は無意識のうちに長編小説には「圧倒的な物語性」と「確立されたキャラクター」を求めているようです。それはカラマーゾフを読んでいて逆に気付かされた事。カラ兄は、キャラはそれぞれ際立っていますが、圧倒的な物語性というのとは全然違いますね。起こる事は非常にドラマティックではあるのですが、その出来事のみをみせるのではなく、そこに宗教的/哲学的/社会学的な議論をさんざんかませて膨らみながら、ゆっくりと、時に急転化に事が進んでいきます。中に挟まれた人物・エピソードは、必ずしも本筋に必要であるとは限らないながら、それはサブエピソードとしていきいきと動きます。しかし「なぜこの話が入っているの?」というのは、問うてはならないの。なぜなら
「それがすべてカラマーゾフの兄弟なのです。。。」
と、言ってしまう妙な迫力が、なんかあるんですね、はい。
そしてこれだけ複雑にかつ深く絡み合っているからして、一度読んだだけではカラマーゾフの世界の皮膚の表面だけしかみていないようなものなのでしょう。一度読んでしまえばそのあと何度も何度も読み返さなければいけないような、そんな中毒性があります。
それにしても、訳のせいもあるのでしょうが「ろしあ」というと脳内に浮かぶ、「暗い」「重い」「冬が長い」「ウォッカ臭い」「紅茶にはジャム」といった一般的なイメージは(←後ろの2個はあやしいっす)、あまりあてはまりませんでした。重い、というよりまず「深い」という感触。そして結構「はちゃめちゃやん!」と一人ツッコミしながら読んだのでありました。
世界で一番有名な小説の一つであるからして(それにネタバレ平気な私もこれはネタ知らない方が楽しめると思う)、あらすじは書きませんが、登場する人たちとなされる行動の破天荒っぷりってば、私の中のロシアンのイメージを塗り替えるものでした。
大体、解説を読んでいるとドストエフスキーさんその人がバクチ好きの破天荒タイプだったんですね!「偉大な作家」=「偉大な人格者」だと勘違いしてしまいそうですが、実際そうでもないんだな。そうでない事の方が多かったりするのでしょうか。先日紹介した映画「終着駅」に出てきたトルストイは「ジーザスのようじゃないか」と言われていたけれども、彼も若い頃は色欲にふけっていたのだよね、確か?
ちなみにカラマーゾフの兄弟といえば妹が高校生の時に馬鹿みたいにハマっていて「いつか原文をよめるようになりたい」と、高校生のくせにNHKの露語講座でこつこつと勉強してみたり、大学の第二外国語では露語を取った変人でした。その頃のテレビの露語講座はこの新訳の亀山郁夫先生で、「牛若丸三郎太」似の色黒で端正なお顔だったことを思い出します。
序文にあるようにこの小説、最後まで書かれたのは「第一部」のみで、書かれるはずだった…そして恐らくそちらがメインとなるはずだった、アリョーシャが主人公になる「第二部」は永遠にこの世から失われてしまいました(第一部を書き上げた80日後にドストエフスキーは亡くなった)。これ本当に、どんな小説だったのだろう!嗚呼!と身もだえしながら想像するのは、「カラ兄を最後まで呼んだ人のみの特権です。」と、twitterで教えてもらいました。その特権を片手に身もだえしつつ、このとりとめもない記事を終える事にしましょう。
「陪審員のみなさん、あちらにはハムレットがおりますが、わが国にはさしあたり、カラマーゾフがいるだけなのです!」
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